テクノロジーで社会主義を?

テクノロジーには何でもできる。テクノロジーは世界を変えることができるし、社会主義だって可能だ。

テクノロジーを批評するエフゲニー・モロゾフは、かつての社会主義経済をふり返り、ソビエトのプランナーが経済計画の策定に必要な正確な情報を入手することができなかったこと、情報を提供する側も意図して誤ったデータを提供することができた問題点を指摘している。その上で、そうした問題はIoTとブロックチェーンで解決できることをつけ加える。自動車から腕時計や冷蔵庫まで、生活に欠かせない日常的なモノがインターネットに接続されることで、常時接続のフィードバック・システムが遍在化しつつある。モロゾフによれば、社会主義が実現不可能だったのは、経済に関する情報を安全かつ迅速にやりとりする通信システムを欠いていたことが大きい。インターネットの常時接続が生活の一部になった今日、その問題は解消されたといっていい。前世紀の社会主義は技術的な制約によって失敗したものの、テクノロジーが大きく進歩したいまこそ社会主義は実現可能とはいえないか。SF作家でなくとも、IoTとブロックチェーンがソビエトの官僚にとってかわった世界を覗き見てみたい気にはなる。

アルゴリズムが社会のより深部へと浸透している。クレジット・カードの審査はいうまでもなく、誰のスマートフォンにどの商品の広告を表示するのか、人材募集への応募者のスクリーニングもアルゴリズムが行っている。いつ、どこで、誰が犯罪を犯す可能性があるのか、市政府は犯罪の予測にもアルゴリズムを利用している。都市のいたるところに設置されたカメラやセンサーが、道路や歩道の状況を24時間リアルタイムでトラックしていることがそれを可能にしている。かつてアメリカで都市に関する統計といえば、10年に一度、国勢調査局が実施する国勢調査のことだった。連邦政府が多大な時間と労力と費用をかけて、アメリカ国内に住んでいると考えられる3億2,500万人に相当する1億2,600万世帯(2016年時点)に紙の様式を郵送、回収、そして集計する集約的な統計から、より分散化したリアルタイムのデータに大きな注目と期待が寄せられている。インターネットとスマートフォンの普及によって、私たちは爆発的な量のデータを毎日生成している。そうしたデータを都市に活かそうとするのは当然の試みなのだろう。スマート・シティとよばれることが多い。

MITのアレックス・ペントランドは、データによって都市をより良く運営することができると主張する。ペントランドは都市を、健全、安全、効率と規定し、それを改善することに取り組んでいる。安全性や効率性の実現は、都市を運営する市長にとっては最優先すべき課題にちがいない。自分が住む都市が安全であって欲しいと誰もが望んでいるし、いつまで待っても地下鉄がやってこない都市には住んでいられない。とはいえ効率性や安全性だけで、都市がもつダイナミクスや魅力を理解することはできるものだろうか。DropboxやRedditなど多くのテクノロジー・ビジネスに投資しているアクセラレーターのYコンビネーターは、2016年6月に、何もないところから新しい都市をつくりあげるプロジェクトを立ち上げ、都市のKPI(重要業績評価指標)をどう設定すべきだろうかと問いかけた。企業などの組織の多くは、その目標達成の度合いを定義する定量的な基準として様々なKPIを設定している。ROEはもちろん、製造業では不良品率などもその指標に設定されているはずだ。そうした企業と同様に、都市もKPIで評価してみようというわけだ。

情報量が増大することで対処できるようになる問題は少なくない。長い間バスを待った結果、二台のバスが連なってやってきて、一台目のバスは満員で、そのすぐ後の二台目のバスはガラガラだったということがある。どのバス停にどれだけの人が待っていて、いまどのバスがどこを走っているのかがわかれば、バスの運行の間隔をどう調整すればいいのかはわかる。それは概ね情報量によって解決できる。こうした問題は工学的なアプローチで解決できるのだろう。ところが、サンタフェ研究所のルイス・ベッテンコートによれば、人の行動の連鎖から生じる社会・経済的問題はそうはいかない。たとえば100万人が住む都市で起こりうるありうるシナリオをすべて評価し、そのなかから最善のプランを選択するとする。その計算には宇宙に存在する原子の数よりはるかに多い数のステップをたどることになり、仮に必要なデータが全てそろったとしても、その計算と実行は実質的に不可能になるという。ソビエトにインターネットが普及しても、やはり経済や社会は計画できないのだろうか。

計画の実行可能性に関するモロゾフやベッテンコートの議論には、どこか社会主義経済計算論争を思い出させるところがある。1920年のルートヴィヒ・フォン・ミーゼスの論文に端を発し、社会主義の計画経済が実行可能なのかどうかをめぐる難渋で議論がかみ合わないこの論争は、しばしば論点そのものが移動しながら、その後数十年にわたって続いたとされている。もっとも見方によっては、その変奏は今日も続いているといえるかもしれない。社会主義経済は実行不可能だと主張する論陣は、特定の財がどれぐらいの需要があるのか、その生産コストがいくらになるのか、中央のプランナーにそれをあらかじめ知ることはできないことを指摘した。よくいわれるように、どのサイズのどんな形の靴を、来年何人が欲しいと思うのか、中央のプランナーには把握することができない。それは市場に委ねるしかないというわけだ。論争の大きな転換点は、社会主義経済擁護の議論が「市場社会主義」へとシフトしたときに訪れる。社会主義に市場経済と同じ利点を取りこむことを企み、1936年にオスカー・ランゲらが導入した市場社会主義のモデルは、政府が企業を所有・コントロールするものの、商品は市場で消費者に売るというものだ。それ以前に想定されていた中央集権的な計画経済とは異なり、市場社会主義では、中央のプランナーが個人の需要や選好に関するすべての情報をあらかじめ有している必要はない。注目すべきことは、ランゲらが市場経済のモデルである一般均衡理論を社会主義経済にもちこんだことだ。プランナーは財やサービスの不足・過多をどうにか察知し、供給過多の場合は価格を下げ、需要が大きいときには価格を上げる。価格を通じて効率的な資源配分が可能だとされる一般均衡理論のモデルに依って立ちつつ、その市場モデルで想定される架空のせり人の役割を中央のプランナーが担うことで、試行錯誤を通じて均衡価格に達することができる、よって市場社会主義は可能だというわけだ。市場経済と社会主義経済のモデルが、ここで奇妙に接近することになる。

雪崩をうって急速に進む社会主義経済圏の崩壊を目の当たりにしつつ、切迫感に満ちた空気のなかで1990年に行われた一連の講演で、ジョセフ・スティグリッツは、市場社会主義の失敗を新古典派のモデルの過ちに求めている。新古典派が経済を正しく描いていたならば、市場社会主義は成功し得たはずだ。たとえば、価格にもとづく生産の意思決定権を個別企業に与え、個人に価格にもとづく消費の意思決定権を与えることを非中心化 (decentralization) と呼ぶなら、市場社会主義もその利点を反映している。もっともスティグリッツによれば、そこでいう非中心化にはごく限定的な意味合いしかなく、市場の特性を反映しているとはいえない。金融市場など、今日市場と呼ばれるものの多くは、一般均衡理論の市場モデルにもとづいている。そして市場主義者はそのモデルの応用範囲の拡大をいよいよ声高に主張している。一般均衡理論が市場社会主義のバックボーンでもあったこと、そして社会主義の実現可能性を示すためにその同じモデルが熱心に利用されたことを考えると、市場主義者の主張は倒錯性を伴って聞こえる。こうして社会主義経済圏の崩壊でにわかに高揚する市場主義者を尻目に、スティグリッツは「社会主義の衰退?」と疑義を呈することになる。

均衡論的な市場で経済がうまく機能するというなら、市場社会主義もうまくいくはずだ。ましてコンピュテーション能力が爆発的に増大し、常時接続のIoTによって大量のデータ収集と処理が可能になったいま、その条件は整ったといえる。毎日スマートフォンをタップすることで、私たちがいつどこを歩き、何を買い、どのサイトにいつ何分何秒アクセスしたのか、その一挙一動が情報として特定のサーバーに集約される。その情報をもとに、私たちのひとりひとりに何を買うべきなのか、いつどこに行くべきで、何を読み、どの動画を見ておくべきなのかをカスタマイズした上で教えてくれるとすれば、インターネットで完全自動化の市場社会主義n.0が悲願の実現を遂げつつあるといえるのかもしれない。そこにはソビエトの官僚も、裏で人を操る黒幕も要らない。誰もが自発的に隷従する天真爛漫なディストピアだ。興味深いことに、1967年にランゲは、コンピュータの導入によって社会主義経済の計算は可能になると指摘した上で、市場よりも計画の方が効率的なのだと主張している。ランゲはそこで、連立方程式を電子コンピュータに入力すれば、その答は1秒もせずに得ることができると述べている。ソ連経済の専門家によると、1977年のソ連では1,200万種類の商品が生産されていたとされる。ある経済学者は、それだけの数の商品の計算には最新のコンピュータでも18年が必要になることを試算し、ランゲが誤っていることを示そうとした。1984年のことだった。その後の1998年に、その同じ経済学者は、コンピュータ技術の進歩の早さを看過していたことを自ら認めている。コンピューティング能力の飛躍的な向上によって、演算能力は指数関数的に高まっている。そうだとすれば、社会主義経済の実現可能性は、結局のところコンピュータの能力の問題に収斂するのだろうか。

一連の論争で社会主義経済の不可能性を手厳しく批判したのはフリードリヒ・ハイエクだった。経済を分散型知能と考え、限定的で局所的な知識しか備えていない多くの個人が、それぞれ独立して行動した結果たち現れる自生的秩序を追求したハイエクは、情報を中央に集約することは不可能で、経済は誰にもデザインし得ないことを主張した。情報は分散して存在している。ハイエクにいわせれば、情報が有用なのは、それが中央のプランナーの手中にあるからではなく、それぞれの人が局所的に備えているからこそ情報は役に立つ。ここでいう中央のプランナーは、ソビエトの官僚であれ、テクノロジー企業のサーバーであれ大差ない。ランゲに対して、市場とは計算のことではないと応え、均衡論と市場社会主義が共有していた、経済の均衡を計算するアルゴリズムとしての市場パラダイムからハイエクは離れてゆく。そしてその批判の矛先は、市場社会主義が前提とする一般均衡理論の市場モデルへと向かう。およそ100年前に口火が切られた社会主義経済計算論争が、いつどのように決着がついたのか、それとも未だ決着はついていないのか、その解釈をめぐって、今日も各学派が議論を続けている。ランゲはハイエクやミーゼスの批判を的確に理解してはいなかった、ランゲのモデルは擬似市場にすぎない、ハイエクは彼の思い描く市場モデルを具体的に示すことはなかった—。幸い擁護すべき教義のない者にとってこの論争の興味深いところは、市場経済も市場社会主義も同じモデルを共有していたということだ。そうだとすれば、両者の経済にどれほどの差を認めるべきなのだろう。新古典派は資本主義にも社会主義にも応用できるなら、それは資本制に固有のモデルといえるだろうか。

スティグリッツは、先の講演で、経済観が及ぼす力の大きさを強調している。経済をどのように捉えるのかは、経済学の話だけではなく、現実の経済に大きな影響を及ぼす。一般均衡理論の経済観とは異なり、経済はダイナミックで、進化を続ける高度に複雑なシステムだと考えることもできる。提示された価格を見て、商品を買うか買わないかを決めるだけの受動的なパーツとしてではなく、私たちひとりひとりが、毎日様々な実験を局所的に繰り返し、より積極的な役割を果たすことを市場と考えることもできる。ひとりひとりがそれぞれソリューションを模索し、うまくいくアイデアをスケールアップし、ダメなものを捨てる。経済や市場をそのように考えると、資本主義とよばれる経済システムは、必ずしも効率的ではない。新しいレストランがオープンしては、その多くが早々に店を閉じることになる。その度に新しい店をつくり、そして短期間で店を閉めることになるのはムダにはちがいないものの、その過程でいずれ誰かが成功法を発見することになる。なるほど、たしかにソリューションを見つけるまでに多くの人たちが試行錯誤と失敗を繰り返すことはとても効率的とはいえないものの、資本主義はその発見に秀でている。それぞれが局所的に考え判断し、ソリューションを模索することを促すのが市場であり資本主義だとすれば、資本主義の強さや創造性にはムダや非効率性はつきものともいえる。都市は必ずしも効率的ではなく、様々なムダを生み出している。非効率性が資本主義をダイナミックであり続ける余地を与え、断続的に新しいものを生み出させているのと同じように、都市の活力の源がその非効率性にあるとしたらどうだろう。社会主義経済計算論争は、市場と市場社会主義が相反する経済観にみえつつも、その実両者が深く共有している一般均衡理論のモデルそのものに深い疑念の眼差しを向ける契機を与えたはずだった。現実の経済を考えてみると、市場経済とよばれる経済は、 家計から企業の予算まで、大小様々な無数の計画経済から成り立っている。とても把握しきれない相互に矛盾する無数のプランがぶつかり合い、それでもどうにか折り合いをつけつつ、辛うじて変化に対応している。均衡論のシームレスな世界とはほど遠い。

テクノロジー・ビジネスには市場主義を信奉し、資本主義の寵児を自認する人たちが少なくないという。データに基づく効率化を謳うビジネスや、アルゴリズムによる最適化を標榜するアプリの多くが均衡論に基づき、それがランゲらの計画モデルに似ているとしたら、彼らが熱心に主張しているのは市場だろうか、それとも市場社会主義なのだろうか。もっともそもそも両者に大差はないとしたら、どちらでもいいのかもしれない。モロゾフのように社会主義の可能性をあらためて問い直す者が現れることと、市場主義のリーチが深化していることは、テクノロジーの進歩と均衡論を折り目として対をなす表裏一体の関係というべきなのかもしれない。社会主義経済計算論争がそうであったように、そこで操られる言語とは裏腹に、両者の経済観にどれほどの差があるのかあらためて考えてみる必要がある。コンピュータ能力の飛躍とインターネットを手にした21世紀のテクノフィリアたちが、100年も前の古臭い議論を反復し、古色蒼然とした社会主義などを蒸し返そうとしているのは一体どういうことなのだろう。

都市は広義の市場であり、プラットフォームといえる。とはいえ、効用を最大化する消費者と利潤を最大化するビジネスから成る市場というモデルは、都市を正確に描いているといえるのかどうか。企業の目的は、売上と利益の最大化だ。企業とはちがって、都市はひとつの目標のために存在してはいない。都市には多くのしばしば相反する目標が共存し、効率化はそのうちのほんのひとつにすぎない。そもそも都市に目的などあるのかどうかもわからない。ベッテンコートは、都市は資源配分のツールのことではないと主張する。市場をアルゴリズムのような計算機能や最適化のツールと考える目的的思考には、相通ずる根深い設計思想が見え隠れする。最適化やスマート・シティを夢見るプロジェクトの多くに、数世紀も前から野心的な計画を試みてきた数多くのユートピア思想家・実践家たちの影をみることは難しくない。前世紀にようやく屠られたはずの、あのお節介なユートピアンたちが、新しい装いでまたやってきた。

都市のふるまいを理解するうえで、データは大きな示唆を与えてくれる。いまさらラッダイトに後退することはできそうにない。一体誰がもはやwifiなしで生活できるだろう。データの収集は現状理解のための第一歩だ。何をするにもデータが必要になる。そのデータをよりシヴィックな方法で活用し、都市に活かすこともできるはずだ。バルセロナはスマート・シティへの先進的な取り組みでも知られている。市内のセンサーは大気の状態をモニターし、駐車場やゴミ箱もモニターされている。そして、テクノロジー主導ではなく、バルセロナに住む人たちに何ができるのか、住民の手にテクノロジーを委ねることを率先している。政策の意思決定に住民が参加することを推奨し、人を最優先するシヴィック・テクノロジーの試みを模索している。

ニューヨーク市は、オープンデータとして大量のデータ群をオンラインで公開している。雇用統計のようなものから、市内のレストラン全てに定期的に実施される衛生検査の結果も公開されている。自治体が成長や開発を望むというなら、まず最初にすべきことは、収集した様々なデータを一般に公開することだろう。どのデータが何の役に立つのかなどと選別する必要はない。それはユーザーが判断すればいいことだ。公開すれば、それを何かに利用する人が必ず出てくる。ハイエクに倣っていえば、情報はローカルにあるからこそ役に立つ。自分が住むところのことを多くの人が関心をもち、知ることが、その都市がどうありうるのかを考え始める第一歩のはずだ。ニューヨーク市のランドマーク保存委員会は、市内の141ヶ所の歴史的地区にある34千近くの建物に関する情報をみることができるマップをオンラインで公開している。マップ上で建物をクリックすると、その建物の建設年や建築家などの詳細が表示される。自分が住んでいるところを手軽に知ることができる資料の存在が、長期的にはその都市のクオリティを決めることにもなる。自分が住んでいるところに興味がない人ばかりだとしたら、その都市の問題は、開発以前のところにあるにちがいない。